昭和47年09月27日 朝の御理解



 御理解 第12節
 「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」

 天地がそのまま、神様のお姿だという訳であります。金光教の皆さんが、拝んでおられる神様ちは、どんな神様ですかと、よく皆さんも、聞かれなさるだろうと思うです。そしたらやはりこう答えたらいい訳ですね。神に会おうと思えば、庭の口を外へ出てみよ、空が神下が神と仰せられるのですからと。その神様のお働きは、どのような風に頂き止めるか、どのような風に頂いた神様を、表し申し上げるかと。
 そうですか、金光様の神様ちゃ空を拝んだり、地を拝んだりすればいい訳ですねと、いう訳ですけれども。ただ空を拝むとか、地を拝むというだけではなくて、天地の中に満ち渡らせておられておるところの、神様のお働きと。そういうお働きを、感知させてもらうと言うか、悟らせてもらうと言うか。そしてそのお働きに、お応えを申し上げるというのが、金光様の御信心だという事になる。それを天地の道理をもって、微に入り細にわたってお説き下さったのが、教祖生神金光大神という事になる。
 勿論、教祖生神金光大神というのは、私が生神金光大神だと、教祖様が自分から名乗られたのではなくて、段々神様のおかげを頂かれるに連れまして、御神格もまた一段一段、いわゆる生神金光大神というところ迄、お進みになられ。しかも天地金乃神と同根というところ迄、御神格を頂かれる。しかもその天地の神様から、世の中の難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれという、大変な願いを受けられて、金光教が始まった。
 金光教が生まれた。ですからこれは、只金光教の説明と言うか、まあ言うなら、神観という訳でございますけれども。それを本当に、神に会うという実感をです。成程空が神、下が神と仰せられる。その森羅万象ことごとくを、神の対象として拝めれる信心を頂きたいとこう思います。今日私御神前で、大平外務大臣を御心眼に頂いた。今北京に行っておられますね、田中首相と一緒に。どう言う様な事だろうかと思うたんですけれども。取り分け、人間関係と言った様な場合は、外の方の関り合いと言うかね。
 最近言われる人間関係の上に、おかげを頂いていく為には、どうしても大きく平たくならなければ、人間関係はスムーズには行かない。どんなに律儀な人だと言うても、正直な人だと言うても、心が小さかったんでは、難儀は絶えません。ちょっとした事でも苦になる、ちょっとした事でも心配になる。ですからどうしても大空のような、大地のような、限りない豊かな大きな心を頂くという事がです。
 これは取り分け、この外務大臣という事は、外部との折衝と言う所のおかげを頂いていく為には、どうしても、大きく平たくならせてもらわなければならないなといったような事を感じておりましたら。今日の、ここ十二節を頂くのです。ですから、金光様の方達が拝んでおられる神様は、どういう神様かという事ではなくてです。例えば、神に会おうと思えば、庭の口を外へ出てみよと。
 だから本当にそれを、神様と実感する事の為にはです。こういう信心をしてみよと言われる信心をさせて頂かなければ、その神様を神様と分かる事は出来ません。ただ金光教では、天地をそのまま、神様として拝んどるというだけではいかん。拝んどるなら、拝んどるだけの、やはり印というものが見えなければ、日常生活の上に現れてこなければいけん。そこで、神の心を心としてという。もうこれより大きな心はなかろうと思うですね。その為には、神の心が分からなきゃいけません。
 神の心を心としてという事が、一番大きな心だと思う。そこで神の心を分かる。それをあらゆる角度から、神様の思いとか、願いとかというものを、説き聞かせられててある訳です。ですから神様の心に添うた生活。神様のお心に添い奉る生活をさせて頂くという事がです。神の心を心とした生き方という事になります。そこで神の心を心としての生き方というのが、一番大きな信心であり、大きな心である。神様の心を心としての生き方なんです。それで私共は日常生活の上に、それを当てはめて参りますとです。
 天地日月の心になること肝要と教えられるようにです。天の心を知り、地の心を分からしてもろうたら、天地の心に、神習わせて頂くところの生活でなからなきゃならない。天の心というのは、与えて与えてやまない心。限りない、美しい心という事です。地の心というのは、受けて受けて受け抜かせて頂こうという。しかも、黙して受けていくというのが大地の心。そういう意味で、合楽で、黙って治めるといった様な事が、どのように素晴らしい、神の心を心としての生き方かという事が分かりますですね。
 言うて聞かせたり、分からせたりした方が早かろうごたるけれども、そうではない。黙って、受けていくというような生き方を、身につけさせて貰う。それは昨日の御理解じゃなかばってん、ものも言わんか、返事もせんかと言うそういう意味じゃないですよね。例えそれは自分の顔が潰れるような場合であっても、わざわざ赤面弁慶になってから、言い訳をせんでもいいという。所謂天地の神様が見ておいでになるのだから。
 神様が御承知の世界に生き抜く事が、金光様の御信心だというような表現で、私は申しますけれども。そういう生き方が、如何に、天地の心を心として、神の心を心としての生き方であるかという事が分かります。ですから、例えば、そこに言わなければならないという時にはです。その事も、じっと心の中に、祈りに祈り、願いに願い、又はお詫びにお詫びをさせて頂いて、実を言うたら、言わんでもよいのですけれども。
 昨日、伊万里の竹内先生夫妻で、御参拝になっておる。日曜でもないのに、今日は何事ですかと言うたら、もう兎に角、大きな問題ばっかりが次々と起きておる。という事は、大きなおかげを頂かせて頂くという事ですからね、と言うた事でした。先生が、市長になられて、足掛け三年になります。あちらこちらで、金光様小さい時から、お母さんの御信心を受け継いでおられるのですから。
 随分金光様の御信心を、あちらこちらで本当に、金光様の御信心を分かりたいという一念というものが、非常に強い。もう全国行脚してでも、本当な事を教えてもらう所があるならと、あらゆる偉い先生の話も聞いてみた。あらゆる大きな教会には、折あるごとにお参りをして教えを求められた。けれども、自分の心にピッタリ、これが金光教だと、自分が感じておるような教えを頂いた事がなかった。
 当時は、熊本におられました頃、私が大体おらんという事はないのに、私が三回と思いよったら、先生の話聞いたら、四回その当時の椛目に見えておられます。そして四回目に、ようやく私と会われた訳です。そして自分が探し求めておった金光教はここにあったと、それこそ、永年求め続けておるものが与えられた喜びで、皆さんも御承知のような熱心な、一家を挙げて自分の周辺をあげての信心になっておいでられた。
 先日から、玄潮という、お道の雑誌があります。その雑誌に、伊万里の竹内市長の記事を貰いたいというので、わざわざ玄潮から、記者の方達が、あちらへ行って、いろいろ一問一答をなさっておられる。中に、奥さんが、初めは先生がおられなかったそうですから、奥さんとお婆ちゃんとが相手をしておられる。その中で言っておられる事に、合楽に御神縁を頂いて、初めて金光教の信心が分かりかけてきたという事が、一番に申しました事ですと言う風に言うておられます。
 次々と、難儀な、大きな問題が起きてくる。その問題をです。黙って治めておられるという事が素晴らしいです。市長さんだから、いろんな問題を、それこそ、こう説明される。私は、聞いてから驚きました。本当に、金光教の本当の信心をもって、例えば町が治められ、市が治められ、国が治められ、世界が治められるような事になったら、このようなおかげになってくるだろうと私は思いました。今、伊万里の、この三年間の間に、起きてきた大きな問題が、みんな見事なおかげになっておる。
 しかもそれが、伊万里市大繁盛の、みんな元ばっかりになっておる。内容を色々お届けされましたけれども。その事が、問題が一つ一つおかげになって行けばよい。そのおかげを、どのような風にして受けておられるかと言うと、黙って受けて、黙って治めてゆかれる、伊万里市を。言わねばならん事は、誰かが言うてくれる。もうそれは思いもかけない働きがそこに始まって行っておる。言うならば、伊万里の市長は、何処まで大きいやら、分からんというような、これは私が思うのですよ。
 皆さんが、感じだしてこられたのじゃなかろうかと思うですね。ここは言うて聞かせて、説明しなければという様な事ではなくて、そういう生き方を、市政の上に表しておられる。そこから伊万里市の繁盛が本当に今度の市長はついとると、みんなから羨ましがられる程しに、伊万里がおかげの膨張ですねいわゆる。膨張していっておる訳です。これなどは、神の心を心としての、生き方が出来ておるからであります。
 私は大きなおかげを頂きたいなら、大きな信心をしなければならんが、大きな信心とは、私は神の心を心としての生き方だと思うですね。だからそん為にどうしても、神様の心というものをです、神様の思いというものをです。分からせて貰い悟らせてもろうて行かなければいけません。親の心が分からないとです、返って親に歯痒い思いをさせる事になる。親が右のものを取ってくれと言うのに、左のものどん持って行ったんじゃそうじゃなかと言うてから、返って歯痒い思いをする様な事じゃないでしょうか。
 親の思いが分からんからです。親の思いを分かる、悟らせてもらう。その悟らせて頂くという事の為に、お互いが信心辛抱、実意丁寧神信心をしなければいけんのです。昨夜の御祈念に、末永先生が、昨日は当番でした。御祈念が終ってからのお話を、皆さんに聞いて貰っておりましたのを、私はここから聞かせて頂いた。本当に有難い事だ、素晴らしい事だと思います。
 昨日は青年教師会が、ここでありましたり、それから外部のいろんな用事がありましたから、先生方がおりませんでしたから、自然御結界奉仕の時間が永かった。私は八時であちらへ下がりますし、昼は一時から出て参りますのですから、その間を修行生の方達が、奉仕する訳です。昨日ばかりは御結界に奉仕しとって、兎に角足が痛い。兎に角心が他へ散って本当に、ああなりますとですね。十分間でも座っておる事が辛いですね。座っとるという事は楽なごたるですたい、何もせんで良いのだから。
 ところがどうしてどうして、実際座ってごらんなさい。兎に角一時そこにじっと座っときなさいと言われて、じっとそんなら座っとくだけ。それが三時間も四時間にもなるのですからね。又は五時間にも六時間にもなる事があるのですからね。交替に誰かが来なければならん時間になっても、交替に来ない。その頃から足が痛いだけでなくて、腹が立ってきた。言うなら誰々先生早う替ってくれんのと、言いたいところである。そこでです日頃の教えを思い浮かべた訳です。
 親先生が御結界に奉仕をする時には、大地に根を下ろした大木の様に大地に根を下ろしたような気持ちで、ここにはどんな事があっても動かんで済む様な心で、座らなければいけんぞというと言う事であった。そこでです心の中に本気で座ろう、本気で立つまいと思うたと言うのです。本気でだから受けて行こうと思うたのです。そしたらねそれこそ手の平を返すように、自分の心の状態というものがです生き生きとしてきた。だけではない、有難うなってきた。
 はぁ御結界奉仕の味わいと言うか、三昧境とはこの事だろうかと思う位に有難うなってきた。ほんの今迄早う替りが来りゃええところへ、来んとが腹が立つ。足は痛い、そこには、足の痛さも腹立ちも消えてなくなって、只三昧境があるだけであったというお話をしておりました。今日の御理解で言うなら、黙って受けようと腹を決めたところからです。本気で只それをね、本当そげん言いなさりゃそうどころじゃなかけんで、今日は黙って治めてみろうという位な、簡単なものではなくてですね。
 もう本気で黙ろうと、本気で生神金光大神を唱えさせて頂いて、黙って治める事に精進させて頂こうと、本当に腹が決ったらです。心の中は、手の平を返すように変ってくるのが本当です。もし変ってこないなら、まぁだ本気でその事を思うていないと言うていいです。信心辛抱、実意丁寧神信心が、如何にそこに求められるかが分かるでしょう。これは生活の全面にわたって、そういう心の状態で、接していかなければなりません。又は受けていかなければならない。
 昨日は、午後からの奉仕に、この御理解だけを聞いて頂いたんですけれども。昨日は、久し振りで、古賀先生のお母さんが、今熊本におります。もう本当に難儀な問題で、どこどこの先生にもお伺いした。どこどこの先生にも尋ねてみたけれども。どうしても決心もつかなければ、心が治まらない。どうでも、弟さんに訳を話して、自動車で実は今日は送ってもらいましたと、こう言う。それで、私が申しました。古賀さん、結局あんたの心の血のめぐりが悪くなっとると言うて聞かせました。
 病気の一切の原因というのは、血のめぐりが悪いところから、血がそこに滞るところから、いろんな病気が生まれてくるとです。血のめぐりが悪いからだと。御理解を頂いておるうちに、永年、椛目の時代に修行しておりますから。改めて合楽の信心が蘇ってきた。もう親先生、なぁにもないとですね。結局は、自分の我情が、我欲が、こういう難儀な心の状態になっておるんだ。これで本当に、おかげを頂きました。途端に血が滞っておったのが、血の回りがスーッとよくなったような感じです。
 お互いの心の状態が、腹立ちとか、心配とか、取り越し苦労とか、不安焦燥、又は恨みつらみといった事がです。如何に心の血のめぐりが悪いから、そういう結果になっておるんだという事を分からせてもらう時です。結局、血の巡りを良くしなければならない。ほんの今が今迄です、腹が立っておった。今が今迄です、足が痛い痛いと、思うておった。けれども、日頃の教えが、心の中に蘇ってきて、本気で大地に根を下ろしたような心で、もう座り抜くぞと思うた。思うたら途端にです。
 そこにしこっておっ、血の滞りがです、スーッと体全身に血の巡りが良くなったような体験を、昨日、末永さんは頂いた訳です。そこには、痛さもなければ腹立ちもない、だけではない。それは有難い。これが御結界奉仕をさせて頂く味わい。これが三昧境だと思う程しの心が開けてきた、こう言う。これがおかげを頂く元なんです。そこには不安もなければ心配もない。恨みもなければ、つらみもないというような心の状態である事の為にです。私共が、神の心を心としての信心。
 為にはまず、神の心を知らなければならない。信心辛抱実意丁寧神信心というものを、本気で身に付けなければいけない。信心が留まっておるから、血が滞るのである。所謂、スムーズなとこう申します。スムーズなおかげを頂いていく為に、自分の心がまずスムーズにならなければいけない。どんな事があっても、それを、有難い御事柄として、受けていけれる調子を整えていくという信心。為に御祈念も必要であり、お話も頂かせてもらわなければ、心の滞りが取れない。
 心のしこりが取れない。血の循環がよくなるところにです。一切がおかげの元になってくる。体の事で言うならばです。血のめぐりがよくなる事で、一切の病気は、根が切れる程しのおかげになってくる。また病気しないで済むおかげ。その心の血の循環の為にです。長生きをする人達の話を聞くと、よく盃二三杯位のお神酒を頂くと言う。これが血のめぐりをよくする。それが長生きの元になっておると言われております。如何に心の血のめぐりに、有難き勿体なき畏れ多きと仰る。
 この三喜が、如何に心の調子を整え、心の血の循環を整えるかという事が、また分からせてもらいます。その為にはです、実意丁寧神信心、信心辛抱がなされなきゃならない。どうして、いつ迄でん、こげんおかげ頂かんじゃろうかと思わずに、もうこのままでよいという腹を作る事なんだ。本気で、神様へ、この求め給うところの、これを修行であると思うたらです。とことん、この修行を受けて受けて受け抜かせて頂こうという、大地の心になる事なんだ。それが神の心を心とした事です。
 そこにはそういう決心が本当についた時に、末永さんじゃないけれどもです。今迄とは打って変わった心の状態が生まれて、これが信心の三昧境であろうかという心が開けて来た。血の循環がよくなってきた。そこに今迄苦しい事だ難儀な事だと思うておった事が、難儀が難儀でなくなってくる。そういうおかげを受ける事によってです。愈々天地だけではない、どこへおってもです。神様のお守りを、天地の働きを受けておる自分という者が、実感として通うて来るおかげ。
 そういうおかげが約束される訳です。何と言うても空が神下が神と仰せられる。いわゆる天が神だ地が神だ。いやその中の一切、包含されておるところの一切、森羅万象ことごとくが、神様のそのままお姿だという事。起きてくる様々な事柄もです。神様が、それぞれに求め給うところの、神様の御働きだと分からせてもらう時です。その御事柄として、成り行きを大事にさせて頂く。簡単に言うけれどもです。
 そこんところを言わねばおられん。こうしなければおられん様な事も起きてくるのですけれども、そこが信心辛抱です。そこが、実意丁寧に受けていくとはそういう事なんです。それが天地日月の心になった事なんです。それが神の心を分かって、神の心に即応した、神の心を心としての生き方、そういう生き方がです。私は今日頂いた大平外務大臣という事じゃなかろうかと思うた。
 大きく平たく、これならば、どのような難しい人間関係の中にあってもです。例えば竹内先生じゃないけれども、親先生私共は日になんぼうも、いろんな問題を持ち込んでくるとをです。先日新聞かテレビだったでしょうか、田中総理大臣は、毎日百人ずつの人に面接されるげな。それは大変な事だろうという記事が載っておりましたが、冗談のごと、合楽の親先生は、日に何百人の人に会いござると思うた。しかも一人一人が、様々な難儀な問題を持って来る事をです。
 一人一人、その人その人の血の循環が、滞っておるところを治してあげながら、何百人の者に接しておられるという事は、大変な事だなと思いましたと言うて、昨日はそんなに言っておられます。人間関係がどのようであっても、どんな難儀な問題であってもです。神の心を心としての対し方というものが、身に付いて参ります時にです。それこそ大平大臣じゃないけれども。太平洋のような心で、どういうものが流れ込んで来ても、黙って受けて受けて受け抜いて行くという、姿勢というものが出来てくる。
 そこに初めてです。神様の心を心とした生き方が出来るから、今度は神様が氏子の心を心としてのおかげを下さるのです。只自分の願い自分の思いだけを神様に申し上げたり、お願いをしたりする事が信心ではなくてです。先ずは神の心を知って神の心に即応した生き方をさせてもらうという。それもです身に付いたら、こんな見易い事はない。こんな楽な事はない。そこを信心とは見易いものじゃがと仰るのです。
 けれどもですどうも、今日ばっかりは座っとろうごとはなか、腹が立って応えんという時にです。日頃頂いておる教えが蘇ってくる。そこで本気で腹を決めるところからです。もう同じ人間ですよ。座っとる格好だけは同じですよ。けれども、心の状態はです。今迄の腹立ちやら、足の痛さが、痛さも、腹立ちもあったものではない。只あるものは有難いというものだけである。
 これが御結界で親先生が、本当に替りが来ても立とうごとないと言われるのは、この事だろうか。これが三昧境だと悟らせてもろうた。信心は悟りなりと言われておる。その悟りというのは。本気で信心辛抱実意丁寧神信心をさせて頂いておる時、それを行じさせて頂いておる時にです。翻然としてです、頂こうとして頂けるものではない。翻然として心の中に頂けてくる。
 言うならば翻然として今迄滞っておった心の血が、順調にまいだす訳です。そこに肉体の健康があるように、心の健全心の健康いわゆる完璧な受けものが出来るから。おかげも又、水も漏らさん程しのおかげになってくる訳です。神様は限りないおかげを下さってあるのだけれども、受けものが悪いから、おかげが受けられんのだとおっしゃるのですから。だから神に会おうと思えばと、本当に神様を実感として、感じ取らせて頂く事の為にです、今日の御理解を頂いてもらいました。
   どうぞ。